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創造の喜びを知る作曲家的サイエンティスト

東京大学 理学部 教授 理化学研究所 主任研究員 永嶺 謙忠 氏

 
- 困難を楽しみながら21世紀のミュオン科学に取り組む -

今回のインタビューは、東京大学理学部教授兼理化学研究所主任研究員の永嶺謙忠氏をゲストにお迎えした。

国際的な舞台で活躍される氏は、日本のミュオン研究の先駆者でもある。

エネルギー源として、また医学、物理などの分野で大きな可能性を秘める素粒子"ミュオン"に対する氏の夢や、また大学で若き科学者の指導に当たられる氏の教育に対する考え方などをお伺いした。

氏のお話からは、世界を見つめる広い視野が感じられる。



偶然の出会いからライフワークに21世紀を担う素粒子ミュオン
野崎 今日はどうもお忙しいところをありがとうございます。どうぞよろしくお願いします。

永嶺 こちらこそ、よろしくお願いします。

野崎 さっそくですが、先生は東京大学理学部でミュオンの研究をなさっているわけですが、ミュオンというのは言葉からしても一般にはあまり馴染みがありませんので、まずミュオンとはどういうものか、わかりやすくご説明いただけますか。

永嶺 ミュオンというのは素粒子の一種で、寿命がわずか100万分の2秒。ですから、あっという間に消えちゃうわけです。世の中には非常に多くの素粒子が見つかっておりますが、陽子と電子、光子、それからニュートリノ、この4つを除くと、全部不安定なんです。その不安定素粒子の中で一番寿命が長いのが中性子、その次がミュオンなんです。20世紀を中性子の時代と言う人がいますが、これは1930年代に中性子が発見され、原子力に使われたり、医学利用その他、中性子の20世紀に果たした役割が非常に大きいからなんです。その次に寿命が長い不安定素粒子がミュオンということで、私どもは「21世紀はミュオンの時代」と考え、そのミュオンを大いに使おうと考えているわけです。

野崎 そもそもミュオンとはどのようにして出会ったのですか。

永嶺 これは全く偶然なんです。ミュオンというのは加速器でつくらないと生まれてこないわけですが、私が物理学の研究をスタートした当初は、ミュオンは外国で盛んにつくっている高嶺の花みたいなものでした。しかも今私どもがやっているような実生活に密着した応用とはほとんど関係のない非常に高邁にして、エリートの粒子というふうに思っていたんです。したがって大変回りくどい出会いでして、実は私…。理学部の助手になってすぐに、極低温物理をやっていて、ビスマスという原子核の核スピン偏極という方法を思いつき、それを使った実験をやっていたんです。一方、当時物理教室にいらっしゃった山崎敏光先生が、別の方向から核磁気のいろんな研究をなさっていた。その山崎先生の研究の延長線上と、私がやっていた技術の延長線上に、ミュオンというものを登場させると、その辺の物理学が一挙に解決するということがわかり、それでやおらミュオンに近づいたんですね。

野崎 なるほど。

永嶺 しばらく山崎先生といろんな議論をし、これは大変応用がありそうなので、応用の方に重点を移そうと、ミュオン科学を始めたのが1973年。最初、日本には加速器がありませんでしたから、カリフォルニア大学のローレンス・バークレー研究所というところで始め、1975、6年ぐらいからカナダのバンクーバーに移りました。こことは今でも国際協力をしています。その後、1980年から筑波の高エネルギー物理学研究所の中に新しい施設をつくっていただき、そこを中心に、バンクーバーがバックアップするという形でずっと研究を続けています。

野崎 そうですか。そのミュオンなんですが、物理学の中ではどのような位置づけになるのでしょうか。

永嶺 ミュオンには正のミュオンと負のミュオンがあるんです。簡単にいうと負のミュオンは質量が200倍くらい重い電子、正のミュオンは質量が9分の1の軽い陽子であるという性質を持っているんです。さらに、それぞれ100万分の2秒経つと電子あるいは陽電子を出して死滅する、つまり放射性なんですね。寿命が100万分の2秒だから、利用するのは難しいという人もいるかも知れません。しかし、放射性で、なおかつ重い電子であり軽い陽子であるということで、私たちの身の回りにある陽子あるいは電子が取り巻くいろいろな科学の世界の中で、非常に識別しにくい部分とか突っ込みが足りない部分を、そのミュオンに置き換えると非常にはっきりとわかる場合があるんです。


エネルギー源、医学利用までもう一歩実用化に向けて猛研究
野崎 難しいですね、ミュオンのお話は。では、そのミュオンの魅力といいいますと。

永嶺 いろんな研究テーマがありますが、私が最も魅力に感じるところは2つありまして、1つは21世紀のエネルギー源になるかという問題です。1989年に、常温核融合が話題になりましたね。あの時、ミュオンが非常に話題になり、私も随分マスコミで意見を述べましたけど…。核融合というのは、三重水素とか二重水素とかいう水素の同位体をうんと近づけると、核力という力が働いて自動的に融合反応を起こし、ヘリウムと中性子とになるわけですが、その時に余分なエネルギーを多大に放出する。ところが三重水素とか二重水素というのは、それぞれ正の電荷を持っているので、核力が働くようにくっつけようとすればするほど、反発するんです。それで、ボンボン熱を炊いて、熱運動をさせながら反発力を乗り越えて、核力が作用する距離に近づけるというのが熱核融合ですね。この時、水素のプラズマ状態ができるわけですから、1億度という大変な高温の中でプラズマをどうやって閉じ込めるのかが問題になります。

野崎 そうですね。

永嶺 それに対し、ミュオン核融合では全然違う考え方をしまして、重い電子であるミュオンを1つの核に巻き付けます。これは質量が重いために、非常に小さい軌道を回るんですね。正の電荷を持った三重水素の周りに、非常に小さい軌道を回るミュオンが負の電荷を持っているので、全体が中性になるわけです。つまり、ミュオンが巻き付いた途端に反発力がなくなり、自動的にくっつくわけです。したがって、高温を必要としない核融合ができる。ですから最大の魅力の一つは、ミュオン核融合という方法で何とか21世紀のエネルギー源ができないだろうかと。そのためには加速器でミュオンをつくるのに必要なエネルギーを、ミュオン核融合で生むエネルギーが超えなきゃ意味がないわけですが、これまで進めてきた研究で何とかブレーク・イーブンまでいくことがわかっていて、それをさらに掘り進めていきたいと思っています。

野崎 ぜひこれからに期待したいですね。

永嶺 もう一つの魅力は、これは既に世の中で認められている手法なんですが、ミュエスアール(μSR)法。ミュオン・スピン・ローテーション、あるいはレゾナンス、あるいはリラクゼーションというんですが…。これは、17年ほど前にミュオンの応用研究を始めようとした時、山崎先生と私とで世界で初めて提案した方法なんです。その後、順調に発展して、現在、原子レベルでの磁場をはかる非常に有効な方法として、いろいろな方が研究しておられます。一つに、今爆発的に研究が進められている高温超電導体の磁気的な性質をはかる強力な方法として、既に認知されており、私どもの筑波の研究室でも盛んに実験が進められています。それともう一つあります。先ほどの重い電子というのに関連して、非破壊的な分析が可能なことがわかっています。これまで使われているX線はエネルギーが低いため、物質の中で電子の励起などが起きても、なかなか外へ出てこられない。ところが、負のミュオンを物質の中のある部分にきちっと止めると、そこからミュオンが出すX線のエネルギーは非常に高いので、外へ出てこられるんです。ですから、この世にある非常に貴重なもの、壊したら価値がなくなるものの中身が一体何かを知るのに、非常に有力な手段であることがわかってきました。例えばローマ時代の非常に貴重なブレスレットや壷など考古学上の出土品の中身の分析、その製法を究めることに使えます。私どもは、それをさらに進めて、この世にある最も貴重なもの、壊してはいけないもの。すなわち生体ですね、我々自身。

野崎 人間ですね。

永嶺 その分析に4年ほど前から着手しています。これは放射線医学の第一人者である東北大学の坂本澄彦先生と協力してやっていますが、ごく最近わかったのは、日本人の10人に1人がかかっていると言われる骨粗鬆症こつそしょうしょう。あれは背骨の骨髄のカルシウムに異常が起こるのだろうということまではわかっているんです。それを探る方法として、私どもは背骨の髄の部分にピタッとミュオンを止めて、そこのカルシウムを非常にきれいに測れることを実証しました。これこそ、加速器さえちゃんと整っていれば、すぐに実用できるという段階になっていますね。

野崎 そうしますと、今使われているレントゲンやX線、CTスキャンなどよりもミュオンを利用した方が、分解能や位置精度がはるかによくなるわけですか。

永嶺 特にCTスキャン、あるいはNMR-CTでは測定できない微量なもの。骨髄中のカルシウム量は0.6%とか0.5%というわずかなものなんですね。

野崎 量の少ないものを診断するには非常にミュオンはいいということですね。

永嶺 はい。またNMRは、核磁気を持つ原子でなければやれませんから。例えば酸素にはNMRは使えませんが、ミュオンではやれます。今、これをさらに進めていって、老人性痴呆症にも使えないかということで頑張っています。


世界初の手法を次々に発見“一日も早く世界最強の加速器が必要”
野崎 それは医学の分野でも大いに期待されますね。ところで先生はミュオンのご研究で世界的に有名なわけですが、平成元年度に井上学術賞を受賞されましたよね。

永嶺 ええ。私はミュオン科学をずっとやってきたんですが、特に筑波の高エネ研でミュオンをただ加速器で生むだけじゃなく、パルスにして、あるいは固め打ちして生むという方法を世界で初めてやったことで評価していただいたんです。これもやってみれば「な?んだ」ということだと思うんですが、当時は数10ナノ秒に何万個というミュオンが固まりになってワッとやってきたら、これはとても実験にならないと思っていたんです。ところが、それは考えようでは最も使いやすい。例えばエネルギーに関連したミュオン核融合では、トリチウムからの放射線バックグラウンドというのが非常に実験の支障になるんですが、ミュオンが固まりであるために、放射線バックグラウンドを乗り越えた信号をきれいに見ることができました。またミクロの磁場をはかるμSR法については、非常に長い間、そのミュオンが揺れ動いている様子を初めてとらえることができたんです。

野崎 大変な進歩があったわけですね。

永嶺 はい。電子やミュオンは素粒子的にいうと重さはあるけれど形はない、点状の粒子です。この正ミュオンと電子とでミュオニウムと呼ばれる原子を作ると、点と点でできた、まさに超純粋な原子ができます。これは極めて重要な物理に近づくわけですが、私ども、パルス状レーザを使って、初めてミュオニウムのレーザ共鳴に成功しました。まだ不十分なんですが、もう1桁上げていって、昔から知られているリドベルグ常数と呼ばれる量子力学の基本量の最高精度測定の再構成までいけます。この実験は、私どもの後からイギリスでも始めましたが、これから国際競争も含めて、大変な実験になってくると思います。

野崎 そうですか。国際レベルから見た日本のミュオン研究の現状はいかがなんでしょう。

永嶺 もともとμSR法に最初に気づいたということ、パルス状ビームに最初に気がついて実現したということもありますので、私どもが切り開いていった分野が、海外でどんどん進められているという面があります。一方、私どもが次々と輩出してきた研究者が世界各地へ行っているということもありますし、いろいろな意味で世界の最先端に立っていると思っております。しかし加速器が世界最先端とは言えないんですね。確かにパルス状のビームを世界最初につくったんですが、現在は私どものあとからスタートしたイギリスのラザフォード・アップルトン研究所の方が若干進んでいます。ただ私どもは、もともと最初の実験を外国でやったということもあり、外国から非常に高く評価され、ぜひ自分たちのところの加速器を利用してくれという要請もありましてね。カナダとの協力はずっとやっています。1987年から8年にかけて、私どもの技術を使って超電導の大きな磁石をバンクーバーのトライアムフ研究所に設置して、日本が休みになるとカナダで実験をやっています。それから加速器に関して我々を越した英国のラザフォード・アップルトン研究所で、理化学研究所を通じて本格的な実験装置をつくりつつあります。しかしながら本音を言いますと、何とか一日も早く、世界最強の加速器が日本国内に欲しいですね。


夢の素粒子ビームを実現しボールペンの先で核融合
野崎 そうですか。それでは、ミュオン研究の将来展望と、それを実現するための問題点なども含めて、お聞かせいただきたいのですが。

永嶺 一つは、ミュオンというのは、加速器でできる高エネルギー陽子の重イオンを原子核にぶつけてパイ中間子をつくって、そのパイ中間子が死んでから生まれるわけで、最初出てくるビームは非常に大味なんです。ですから、例えば非破壊分析なら大きさは大体5ミリ角ぐらいとか、厚さも今は紙数枚のレベルという試料が必要なんです。私の最大の夢は何とかしてそれを圧倒的に小さくして、ミクロンの大きさのところにビームを止めたり、原子層一層くらいに止めたりして、そこでミュオン科学を研究することです。“夢の素粒子ビーム”と我々は呼んでいますが、そういう超低速のビームをつくる最先端の研究が筑波でスタートしました。加速器から出てきたこれまでのビームでは実現できないような、非常に薄い、非常に小さいところにビームを導いて、そこでの原子の様子なり、ミクロの磁場なりを眺めていく、そういう研究をどんどん進めていきたいと考えています。エネルギー生産ということに関連してなんですが、熱核融合なのかミュオン核融合なのかという問題は非常に大きな議論を必要とすることです。ミュオン核融合はまだ研究室段階の研究ですが、一つはっきりしていることは、ミュオン核融合は非常に小さい空間領域で核融合を起こせるという点で優れているということです。ですから、その話をさらに進めて、私の夢はさきの夢の素粒子ビームを使ってボールペンの先で核融合を起こし、メガワットの発電をする…。そういうことが、やがてできるようになるに違いないと思っています。将来はそちらの方へぜひ進めたいと思います。

野崎 そのためのに乗り越えなくちゃいけない障害は何でしょう。

永嶺 そうですね。まず立派な加速器がないと第一線の研究はできませんから、できるだけ立派な加速器をたくさんつくって、いろんな方々が使えるようになったらいいと思います。しかも加速器を専用利用する。つまり、これから加速器をつくる時は、ミュオン核融合用の、あるいはミクロの磁場を計るための専用の加速器という格好で実験室をつくっていくこと。そういうことをいよいよやっていく時代になったと思っていますので、とにかく1日も早く新しい加速器の計画が日本で立ち上がるように、そのための実験室づくりをしていくということです。

野崎 そうすると、やはりミュオンの開発にはいかに加速器がうまく安くできるかが重要ですね。

永嶺 そのとおりですね


創造する喜びを持たせて作曲家的サイエンティストの育成を
野崎 ところで先生は研究者であると同時に教育者でもあるわけですが、若手の教育、育成についてはどうお考えですか。

永嶺 私、科学者を分類する際に、よく音楽家になぞらえまして、作曲家と演奏家に分けるんです。あるいは編曲者というのもあるかもしれませんが、何と言っても今、日本が大いに目指さなければならないのは、いかに多くの作曲家的サイエンティストをつくるかということだと思うんです。

 テーマがあって、それをいち早くキャッチアップして、それを非常に格好よくまとめるというのは日本の最も得意なことだと思うんですね。ですが、私どもがとにかくやらなきゃいけないことは、まだ人類が大自然に対してアクセスしている部分はほんのわずかですので、それを全く発想の違ったところから眺め、まさにモーツァルトが知的なソナタやシンフォニーをつくったかのように、それを生んでいくこと。そういうサイエンティストをつくらなきゃいけないと思っています。ですから私は学生に対し、まずテーマを探させる。

野崎 テーマを探させる。

永嶺 テーマを与えない。困ったら助けを出す。自分でテーマを探し、自分でサイエンスを創造していくという、そういうことをやらなきゃいけないと思っております。一方では、そういった楽しみを感じていただきませんと、企業の教育、企業の研究と比べて、大学の教育としての特徴がなかなか出せないんじゃないかと思っています。

野崎 創造していく喜びですね。

永嶺 そうですね。それと、今と昔との違いは、今は断然豊かである。私は理学部の助手になる前に熊谷寛夫先生の助手をしていたんですが、最初部屋に行きましたら、床しかないんですね。しかもお金はない。ただあるのは、比較的立派な建物と学生だけでした。熊谷先生は、日本の原子核、素粒子関係の偉大な指導者なんですけれども、その先生が言われるには「自分の経験では、一番重要なのは人材。次は建物。それから3番目がお金。前の2つがあるから、あとは何とかしなさい」と。(笑)あの当時は貧しいなりに何かとにかく新しいことをやらなきゃいけないということがありましたね。今はちょっとしたところへ行きますと、大体世界一線級のいろんな実験装置があって、ちょっとでも目新しいことが外国でスタートすると、すぐそのあとを追い、それを追い越すことができます。やはり、一歩下がって、もうちょっと広い、あるいは深い視野で次のサイエンスがどうあるべきかということを、日夜考えていくという姿勢が必要なんじゃないかと思います。

野崎 ゼロからの発想、もしくはハングリー精神、そういうところを望みたいということですかね。それから、現在よく言われているところでは、理工系に入りたいという学生さんが減っているようですが、人材確保について、先生はどのようにお考えでしょうか。

永嶺 これは大変重要な問題で、確かに年々減っている傾向があります。特にせっかく大学まで来ましても、科学者あるいは技術者にならずに、証券会社にいっちゃう。(笑)科学に人材を確保するには、学生をできるだけ早く独り立ちさせる。そして、自分で責任をもって研究を喜び進めていくという道に、早く導くというのが一番重要だと思うんです。やっぱり自分が研究していく喜び。全く新しいこと、新しい世界に踏み込んでいく喜びを感じさせることが絶対に重要だと思いますね。

野崎 なるほど。では日本の学校教育の問題点なり、今後のあり方というところをお聞きしたいのですが。

永嶺 まずやらなきゃいけないことは、学生に対してなるべく門戸を開けるように、大学自身が施設の面にしても教官の面にしても、ゆとりを持てるようにするということでしょうね。もう一つは、大学間の交流ですね。例えば基礎科学で、どうしてもこの学校にないやつを使いたいという時に、それを受け入れてあげられるような体制をどんどんつくっていくべきじゃないか…。ドイツ人なんか昔はリュックを背負って、あっちこっちの大学を聞いて回っているような人がいたと聞いておりますけれど、そんな感じで、とにかく生き生きと、やりたい研究はやりたいところでやるというふうなことを実現していきたいと思いますね。

野崎 わかりました。実現したら素晴らしいですね。


苦しみを乗り越えることを楽しむそれが進歩のエネルギー
野崎 ところで、先生の若い頃、学生時代はどんなだったのでしょうか。

永嶺 私は中学までは、野崎さんと同じで湘南ボーイでして、これはもう朝から晩まで野球をやっておりました。それから高校は日比谷高校で、そこでは水泳をやっていましたね。大学に入ってからは、実は私は大学院から理学部に行ったんですが、学部は工学部の応用物理を専攻していまして、そこはわりと授業がのんびりしていました。逆にいうとあまり基礎的にがんじがらめということもなかったものですから、のんびりしておりましたし、学生運動もありましたね。

野崎 学生運動…、そういう時代ですね。

永嶺 あとフランス語をやったり。当時は渡航自由化でなかったんですが、たまたまフランスに行けるチャンスがありましてね。理工系の日仏科学使節団とかいうので、東大と東工大と早稲田と慶応で、それぞれ10数人選ばれて行ったんですが、大変楽しかったですね。私は出来が悪かったので、フランス語ができるというので受かったんです。(笑)

野崎 それから先生は非常にお忙しいということは私もよく存じ上げているんですが、休暇の時はどのように過ごしていらっしゃるのですか。

永嶺 私ども、土日越しで実験することが多いものですから、休暇というのはあまり人と同じようにとっているわけじゃないんです。まぁ最大の趣味はオペラ鑑賞。私は月1回くらいの割で海外に出ているんですが、大体が短いんです。したがって、ロンドン市の見物なんか行ったことがないんですが、オペラだけは何とか理屈をつけて観ます。それも年2回くらいでしょうかね。

野崎 私も「アイーダ」を観て、オペラがこんなにいいものかと感動しました。本当に素晴らしかったです。 では、最後になりますが、先生の生活信条をお願いできますか。

永嶺 研究の中で、非常に苦しいこととかありますが、苦しみを乗り越えるというのは結構楽しい部分があると思うんです。ちょっと例えは悪いかもしれませんが、受験勉強というのは全くつまらない。私は理科系に行くんだから、日本史とか世界史なんて苦痛だという気持ちが少しはあった。一方、世界史それ自体としては面白い。ただ受験参考書とか教科書を開いていたのでは、その面白さが見えてこない。ちょっと脇道にそれると、結構面白く学べるわけですね。ですから、実験でも何でもできるだけ困難なところから乗り越える。

野崎 その困難な部分を乗り越える過程に大変面白いところがあると。しかも乗り越えたら、今度はそれが自信につながる。

永嶺 そうですね。開き直りという言い方はおかしいんですが、大体苦労していることは不得手なことであったり専門外だったりするわけですね。でもそれを乗り越えなければ先に進めないとしたら、やるしかない。どうせやるなら嫌々ではなく、楽しんでやると。多分に気の持ちようだと思うんですよね。

野崎 それが進歩の鍵でしょうか。これからも苦しみを楽しみに変えながら、ご研究をますます精力的に進めていっていただきたいと思います。ぜひ21世紀の人類のために、ミュオンの有効活用が一日も早く実現されることを期待しております。 今日はお忙しいところ本当にありがとうございました。



プロフィール
永嶺 謙忠(ながみね かねただ)

1941年8月29日生まれ、神奈川県
東京大学理学部教授 兼 理化学研究所主任研究員、理学博士

1964年 東京大学工学部応用物理学科卒業 同年 同大学大学院数物系研究科物理学専攻修士課程入学
1966年 同課程修了(理学修士) 同年 同大学院博士課程入学
1968年 同課程退学 1970年 東京大学学位授与(理学博士)
1968年 東京大学工学部助手(物理工学科)
1971年 同大学理学部助手(物理学教室)
1978年 理学部助教授(中間子科学実験施設)
1984年 理化学研究所主任研究員(金属物理研究室)を兼務(非常勤)
1988年 東京大学理学部助教授(中間子科学研究センター)
1989年 同教授
1980年よりミュオンスピン回転国際会議国際組織委員、東京書籍「高校理科」教科書編集委員
1984年より日本原子力学会ミュオン核融合専門委員会主査
1986年よりミュオン核融合国際会議国際組織委員
1987年より高エネルギー物理学研究所運営協議委員をそれぞれ務め、現在に至る

研究分野:ミュオン科学とその応用
受賞:高エネルギー加速器科学奨励賞(「パルス状ミュオンによる中間子科学の開拓」1986年)、井上学術賞(「パルス状ミュオンビームによるミュオン科学の開拓研究」1990年)
永嶺 謙忠
永嶺 謙忠 <

東京大学

1877年(明治10年)、4月12日創立。
その起源は、1856年(安政3年)に設立された蕃書調所(洋書調所、開成所と変遷)と1858年(安政5年)設けられた種痘所(西洋医学所、医学所と変遷)にまで遡る。

明治維新後、両校は新政府により復興され、1869年(明治2年)大学校(昌平坂学問所を再興)のもとに開成学校、医学校の2つが統合された。
同年12月、大学校が大学と改称したのに伴い、大学南校、大学東校と改称。
その後、南校は第一大学区第一番中学、開成学校、東京開成学校、東校は第一大学区医学校、東京医学校と変遷し、この2つが後に東京大学として合併された。

1886年(明治19年)公布の帝国大学令により東京大学は帝国大学となり、法、医、工、文、理の五つの分科大学と一つの大学院から組織され、我が国唯一の大学として学校体系の頂点に立った。

1890年(明治23年)には農科大学を設置。
1897年(明治30年)京都帝国大学の創設に伴い東京帝国大学と改称。
1919年(大正8年)に経済学部設置。
1949年(昭和24年)国立学校設置法が公布、新制東京大学が発足した。
同年、教養学部、教育学部を設置、1958年(昭和33年)に薬学部を設置。

平成3年現在、10学部、12附置研究所、33学部付属教育研究施設等、10学内共同教育研究施設等、2全国共同利用施設がある。
講座数は588を数え、学生数は、研究生・聴講生を含み、学部学生15,756人(うち留学生62人)、大学院生6,558(うち留学生1,394人)にのぼる。

●東京大学(本郷):東京都文京区本郷7-3-1

核スピン偏極
核スピン(核磁気モーメント)を一方向に揃えること

ミュ・エス・アール法(µSR法)
ミュオンが持っている磁気モーメントを微視的な磁針として利用して、物質中のミクロな磁場を測定する実験法

井上学術賞
井上科学財団より基礎科学の発展に貢献のあった50歳までの研究者に与えられる賞

放射線バックグラウンド
3重水素原子は不安定で、平均寿命12年ほどで壊れてベータ線を出す。このベータ線に基づく強い光のことを意味する

パイ中間子
湯川秀樹博士が1935年頃に存在を予言した素粒子で、原子核の中で陽子や中性子を強く結び付ける糊のような役目を持つ素粒子

【インタビュア】丸文株式会社 第4営業本部 副本部長 野崎 孝

1992年4月発行 MIA Vol.34 掲載

※このページは1984年から1998年にかけて発行された、丸文株式会社広報誌『MIA』に掲載されたものです。 お名前、その他の表記等については取材日現在です。



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