業界標準 IEC 60318 規格とは? 【計測ブログ】
イヤホン、補聴器、ヘッドセットなどの最新聴覚デバイスを国際市場に投入する上で、IEC 60318規格の遵守は品質保証において非常に重要です。この規格の技術的背景と歴史から、最も使用される「711型人工耳(IEC 60318-4)」の音響工学的詳細、さらには次世代技術である「HATS(IEC 60318-7)」による空間音響・通話品質評価の最前線までを網羅的に解説する完全ガイドです。エレクトロニクス商社として、高度な開発・品質管理を実現するための測定システムの選定基準と実務上の課題解決策を、技術者や品質管理担当者向けに深く掘り下げて提供します。
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Ⅰ. IEC 60318規格の全体像と国際標準化の背景
1. 規格の歴史的進化と国際市場での重要性
規格準拠の3つの核心的価値
- 品質の信頼性(Trustworthiness): IEC規格に準拠したデータは、第三者機関による検証や、国際的な品質監査において信頼性の根拠となります。
- 市場互換性: 規格に統一された測定結果により、異なる国や地域の規制(例:EUのCEマーキング、米国のFDA規制)への適合証明が効率化されます。
- 開発効率: 測定結果の客観性が高まることで、設計初期段階でのトライ&エラーが減少し、グローバルな共同開発におけるコミュニケーションコストが削減されます。
2. 主要パート(-1, -3, -4, -5, -7)の詳細解説と適用領域
IEC 60318は、デバイスの装着形態(耳を覆う、耳に挿入する、骨伝導など)に応じて、人間の耳の音響インピーダンスを模擬する手法を細分化しています。
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規格番号 |
名称 |
測定対象(用途) |
技術的役割の概要 |
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IEC 60318-1 |
広帯域人工耳 |
オーバーヘッド型ヘッドホンなど耳を覆うタイプの機器 |
広い周波数帯域での音響インピーダンスをシミュレート |
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IEC 60318-3 |
2cm³カプラ |
骨導受話器(バイブレーター)の測定 |
2立方センチメートルの閉空間での応答測定 |
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IEC 60318-4 |
711型人工耳 |
インイヤー型イヤホン、カナル型補聴器 |
外耳道入口部から鼓膜までの音響特性を再現(オクルージョン) |
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IEC 60318-5 |
0.4cm³カプラ |
聴力測定用耳栓型イヤホン |
聴力計の出力チェックなど、医療・校正用途 |
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IEC 60318-7 |
HATS(頭部トルソシミュレータ) |
空間音響、外耳道非密閉型、マイク(通話)特性 |
人間の頭部、耳介、胴体を含む実耳の音響特性を再現 |
Ⅱ. 密閉型デバイス評価の基盤:IEC 60318-4(711型人工耳)の深掘り
IEC 60318-4に準拠する711型人工耳は、市場に最も多く存在するカナル型イヤホンや高機能な補聴器の測定に不可欠です。その設計は、単なる容積の模擬ではなく、精密な音響工学に基づいています。
1. 711型人工耳の音響インピーダンス再現原理
711型人工耳(オクルージョン・イヤー・シミュレータ)は、外耳道に挿入されたデバイスによって、外耳道が塞がれた状態(オクルージョン)を模擬します。
外耳道の電気回路モデル(L-C-R回路)
実際の外耳道は、音響学的には抵抗(R)、質量(L)、および容積(C)からなる複雑な集中定数回路としてモデル化されます。711型人工耳は、このモデルを再現するために、カプラ内部に以下の要素を組み込んでいます。
- 主容積: 成人の平均的な外耳道容積を模擬します。これは音響容量(C)に相当し、主に低周波数帯域の特性を決定します。
- 音響抵抗体と音響質量要素: 狭いスリットや多孔質材などを用いて、高周波数帯域で発生する音響的な摩擦抵抗や空気の慣性(質量)を再現します。
この複雑な音響回路により、人の外耳道で発生する約8kHzから 10kHzにかけての共振(レゾナンス)特性を極めて高い精度で模擬することが可能です。この共振特性の再現性が、高音域の音質評価において711型カプラが不可欠とされる理由です。
2. 補聴器とTWSにおける具体的な測定プロトコル
711型人工耳は、補聴器分野で長年使用されてきた歴史があり、その測定プロトコルは厳格に定められています
補聴器測定における基準(RETSPLとRECD)
- RETSPL (Reference Equivalent Threshold Sound Pressure Level): 補聴器の出力基準を定める際に使用されます。特定のカプラで測定された音圧レベルを、聴力基準(HL)に変換するために必要な基準音圧レベルです。
- RECD (Real-Ear to Coupler Difference): 補聴器の現場調整で極めて重要な指標です。これは、特定のデバイスを実耳で測定した音圧レベルと、カプラで測定した音圧レベルの差を示します。この差を補正することで、カプラ測定の結果を個々の使用者の実耳に合わせた調整(フィッティング)を行うことが可能になります。
最新のTWS(True Wireless Stereo)イヤホン評価
TWSイヤホンの開発では、周波数応答測定に加えて、以下の動的特性評価が711型人工耳上で行われます。
- ANC(アクティブノイズキャンセリング)特性: 外部ノイズ源を設置した状態で、ANC機能ON/OFF時のカプラ内音圧を比較し、ノイズ低減量を測定します。この測定は、フィードバックマイクの性能評価に特に適しています。
- リーク(音漏れ)評価: 意図的に装着を不完全にしたり、規格外の「リーキー・カプラ」を使用したりして、製品の装着状態の許容範囲と音質変化を評価します。
3. 実務上の課題:高周波測定におけるマイクの選定
711型人工耳の性能を最大限に引き出すためには、内蔵されるマイクにも高度な要件が課せられます。
- 要求されるマイク特性: マイク自体がカプラの複雑な音響インピーダンス特性を妨げないよう、体積が極めて小さいこと、そして音響的な影響を最小限に抑えるためにフラットな周波数応答を持つことが必要です。
- 超高周波帯域への対応: 近年のハイレゾオーディオの普及に伴い、20 kHz以上の帯域まで正確に測定できるマイク(通常は1/4インチ以下のサイズ)が求められています。これにより、規格で規定された共振特性の正確な把握と、超音波帯域の歪み評価が可能になります。
Ⅲ. その他の主要カプラ規格:IEC 60318-1, -3, -5の詳細
IEC 60318は711型だけではありません。他の規格は、それぞれ特定のデバイスや測定目的のために欠かせません。
1. IEC 60318-1 広帯域人工耳:オーバーヘッド型ヘッドホン測定の要
広帯域人工耳は、耳全体を覆うタイプのヘッドホン(オーバーヘッド型、オンイヤー型)の測定に特化しています。
型との根本的な違い
711型が「密閉された外耳道」のみを模擬するのに対し、広帯域人工耳は「耳介(外耳)と頭部の一部」の影響を簡略化して考慮しています。
- 測定周波数範囲: 711型よりも広い周波数範囲(通常 20Hz 〜16kHz)を、特定の許容誤差内で再現するように設計されています。
- 空気漏れと装着圧力: ヘッドホン測定では、イヤーパッドと耳介の間の空気漏れや、ヘッドバンドの装着圧力が測定結果に大きく影響します。この規格のカプラは、バネ機構などを内蔵し、一定の装着圧力を再現するための設計が含まれていることが特徴です。
2. IEC 60318-3(2 cm^3 カプラ):骨導受話器と旧デバイスの評価
2 cm^3 カプラは、最も構造がシンプルなカプラであり、特定の音響出力源の絶対音圧レベルを評価するために使われます。
- 用途: 主に骨導受話器(バイブレーター)の出力測定、または一部の旧式のインサートホンやオープン型補聴器のレシーバー出力測定に使用されます。
- 技術的限界: 音響インピーダンス特性が純粋な容積性(キャパシタンス)であるため、人間の外耳道の複雑な共振特性を再現できません。したがって、高周波数帯域の音質評価には不向きです。
3. IEC 60318-5(0.4 cm^3 カプラ):医療用標準の維持
0.4 cm^3 カプラは、主に聴力計に用いられるTDH-39などのイヤホンの音響出力を測定するために使用されます。
- 目的: 聴力測定で使用される音圧レベルが、国際的に定められた聴力基準(ISO 389)に適合しているかを校正することが目的です。
- 重要性: この規格は、医療分野における聴力測定の絶対的な精度とトレーサビリティを担保する上で不可欠な存在です。
Ⅳ. 実耳に近い評価へ:IEC 60318-7 HATSの進化と空間音響
711型人工耳が「鼓膜音圧」の再現に特化するのに対し、IEC 60318-7で規定されるHATS(頭部トルソシミュレータ)は、「音の方向知覚と通話品質」という人間の全体的な聴覚体験を評価する規格です。
1. HATSの核心技術:HRTF(頭部伝達関数)の数理的背景
HATSは、人間の平均的な頭部、耳介、胴体(トルソ)を物理的に再現し、実耳におけるHRTFを正確に測定することを可能にします。
HRTFを構成する音響要素
音源から鼓膜に音が到達するまでに、以下の主要な物理現象が発生します。
- 頭部回折(Head Diffraction): 高周波数帯域において、頭部が音波を遮ることで、音源が遠い側の耳で音圧が低下する現象。これにより、私たちは左右の音の到達時間差とレベル差を知覚します。
- 耳介反射(Pinna Reflection): 外耳の複雑な形状が音を反射・回折させ、特定の周波数でピークやディップを生じさせます。これが、音源の上下・前後の識別を可能にする主要な手がかりとなります。
- 胴体反射(Torso Reflection): 特に低周波数帯域において、胴体による音の反射が発生し、マイクや耳に到達する音に影響を与えます。
HATSは、これらの要素を物理的に再現することで、単なるカプラでは不可能な空間オーディオや通話品質の客観的な評価を可能にします。
2. 空間オーディオ技術とHATSを用いた検証プロトコル
イマーシブオーディオ(空間オーディオ)の普及に伴い、HATSの重要性は飛躍的に高まっています。
- 検証の目的: 空間オーディオのレンダリングが、様々な方向の音源に対して、ユーザーの音像定位(Localization)を正確に提供しているかを評価します。
- 測定プロトコル:
- HATSを無響室内に設置し、周囲に多数のスピーカー(マルチチャンネル再生システム)を配置します。
- HATSを正確に回転させ、各角度(例:0°、 45°、 90°)からの音響特性(周波数応答)をHATS内部の人工耳マイクで測定します。
- 測定されたHRTFデータと、ターゲットのHRTF(理想的な人の平均データ)を比較することで、空間オーディオ処理の正確性を定量的に評価します。
3. 通話品質評価(ITU-T P.58)とHATSの密接な連携
HATSは、オーディオ再生だけでなく、マイク性能と通話品質の評価でも中心的役割を果たします。
- ITU-T Rec. P.58: 国際電気通信連合(ITU-T)が定める、HATSの音響性能に関する勧告です。IEC 60318-7規格は、このP.58の基準を組み込んでおり、特にType 4.1のHATSは、電話やボイスアシスタントデバイスの通話マイクの性能評価に広く使われています。
- S/N比と雑音抑圧(ANC for Talk):
- HATSのマウスシミュレータ(人工口)から音声信号を発生させ、同時に外部スピーカーから環境ノイズを発生させます。
- デバイスのマイクが収集した信号を分析することで、音声信号とノイズの分離性能(S/N比)、およびノイズリダクション(雑音抑圧)アルゴリズムの性能を客観的に評価できます。
Ⅴ. 品質と効率を最大化する測定システムの構築と選定基準
規格に準拠した人工耳やHATSを活かし、信頼性の高いデータを取得するためには、周辺機器と測定プロトコルの最適化が不可欠です。
1. 規格準拠アナライザの要求仕様:高精度と高速化
測定の「信頼性」を担保する音響アナライザは、以下の高度な技術的要求に応える必要があります。
高いダイナミックレンジと低ノイズフロア
- ダイナミックレンジ: 最新のオーディオデバイスはノイズフロアが極めて低いため、アナライザにはノイズフロア(微小信号)から最大音圧レベル(大信号)までを正確に測定できる、120dBを超える高いダイナミックレンジが求められます。
- 低歪みの信号生成: 測定信号源(シグナルジェネレーター)の全高調波歪み(THD)が低いこと(通常、<0.001%以下)が必須です。これにより、製品の歪みとアナライザの歪みを明確に分離できます。
マルチチャンネル測定とソフトウェアによる自動化
- 多チャンネル・同期測定: ステレオ(左右)、フィードフォワード/フィードバックマイク、外部ノイズ源など、複数の信号を時間的に完全に同期させて同時に測定・解析できる多チャンネル対応が不可欠です。
- 自動化ソフトウェア: 測定プロトコル(例:周波数掃引、パルス応答測定)を自動実行し、データ収集、統計処理(合格/不合格判定)、および規格レポートの自動生成機能を持つソフトウェアの導入は、製造ラインでの品質管理効率を劇的に向上させます。
2. 測定環境の最適化:無響室と外部ノイズ対策
測定環境は、測定結果の信頼性を直接左右する要素であり、特に低周波数帯域や空間音響測定において極めて重要です。
- 無響室(Anechoic Chamber)の要件: HATSを用いたHRTF測定や、低レベルノイズの測定には、フリーフィールド(自由音場)に近い環境が必要です。特に、低周波数帯域の反射を抑制できる、カットオフ周波数が低い高性能な無響室を選定する必要があります。
- 電磁ノイズ(EMI)対策: 測定器自体や周辺の電源、信号ケーブルから発生する電磁ノイズ(ハムノイズ)は、高感度マイクでのノイズフロア測定を妨害します。シールドされたラックの使用や、高性能なアイソレーショントランスによる電源供給が重要です。
- 制振対策(防振): 低周波数帯域(特にサブバス域)の測定では、外部の振動(建物の揺れ、空調機器の振動など)がカプラやHATSに伝達され、測定誤差の原因となります。測定台やラックのアクティブまたはパッシブな制振機構の導入が必須です。
3. 測定データのトレーサビリティとシステムインテグレーションの価値
規格を遵守し、安定した品質管理を実現するためには、単に機器を並べるだけでなく、エレクトロニクス商社による総合的なシステムインテグレーションが必要です。
- トータルソリューションとしての提案: 弊社(デジマ室)のようなエレクトロニクス商社は、IEC 60318規格の各パート(-1, -4, -7)に対応するカプラ、HATS、高性能アナライザ、そして自動測定ソフトウェアを一貫して選定し、お客様の要求仕様に合わせた最適な統合ソリューションとして提供します。
- ライフサイクルサポート: 測定機器の初期導入だけでなく、定期的な国際標準へのトレーサビリティを確保した校正サービス、規格改定時のアップグレード提案、およびリモートでのトラブルシューティングサポートを提供し、機器のダウンタイムを最小限に抑えます。
Ⅵ. まとめ:IEC 60318規格が描くオーディオ製品開発の未来
IEC 60318規格は、聴覚デバイスの品質と信頼性を国際的に担保するための不可欠な技術基盤です。
IEC 60318-4(711型人工耳)は、カナル型イヤホンや補聴器の音響インピーダンスを忠実に再現する密閉型評価のデファクトスタンダードであり、製品の音質とTHD特性の客観的な評価を可能にします。一方で、IEC 60318-7 HATSは、空間オーディオ、ノイズキャンセリング(フィードフォワード)、および通話品質という、ユーザーの実環境での体験を評価するための最先端のツールです。
これらの規格への深い理解と、高精度な測定システムへの投資は、製品リコールリスクの低減、国際市場での競争力強化、そして最終的なユーザー満足度の向上に直結する、戦略的な品質保証活動です。エレクトロニクス商社のパートナーとして、私たちは規格遵守と効率化を両立する最適な測定ソリューションの提案を通じて、お客様の品質革命をサポートし、未来のオーディオ体験の創造に貢献いたします。
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