ミリ波レーダーによる非接触バイタルセンシングの基礎
はじめに
昨今、生体信号をアプリケーションに利用する動きが活発化しています。生体信号の中でも、特に呼吸や心拍は、スマートウォッチ等のウェアラブル機器の浸透により大変身近なものになってきました。これらのバイタル情報を検出するセンサとして光センサやカメラなどが活用されていますが、装着のわずらわしさやプライバシー侵害の課題があり、今後ミリ波レーダーの活用が期待されています。ミリ波レーダーは非接触で呼吸や心拍を推定することが可能であるとともに、カメラと異なりプライバシーに配慮したセンシングが可能です。
さて、ミリ波レーダーではどのように呼吸や心拍の情報を取得しているのでしょうか?実はその中身はあまりよく知られていません。今回はミリ波レーダーによる非接触バイタルセンシングの基礎として、少し踏み込んで解説していきます。
ミリ波レーダーでバイタル情報(呼吸・心拍)を推定するとは?
ミリ波レーダーでバイタル情報(呼吸・心拍)を推定する際、具体的に何を計測しているのでしょうか?実は肺や心臓を直接的にセンシングしているわけではなく、それらの活動に伴う微細な皮膚の動きを計測しています。
個人差はありますが、一般的に成人の正常呼吸による胸部の変位は数ミリ程度、また、心拍による胸部の変位は数十ミクロン程度と言われています。ミリ波レーダーで受信したデータの位相は、呼吸や心拍による微細な皮膚の変位量をレーダの波長で割った値に比例しているため、この位相の時間変動を利用することでバイタル情報を推定することになります。
では非接触バイタルセンシングにおける60GHzや79GHz帯ミリ波レーダーの技術的な優位性はどこにあるのでしょうか?
皮膚の変動に伴う位相変動量は、当然大きいほうがデータの解析がしやすくなります。様々な帯域のレーダがありますが、60GHzや79GHz帯を始めとする波長の短いミリ波レーダーを使用すると、距離の変動に対応する位相変動がより大きくなります。例えば、検出のために位相変動が10 deg 必要だとすると、24GHz帯レーダ(準ミリ波)の場合174μmの距離変動が必要になります。一方、より高周波な79GHz帯の場合、53μmの距離変動で目標の位相変動が得られることになり、心拍のような微細な変動を捉える際に有利に働きます。また人体内部の電磁波の散乱の観点では、高周波帯域では皮膚表面からの反射が支配的になるため、観測している位相変動を皮膚表面の変動として捉えることができます。さらに法令の観点でも、60GHzや79GHz帯は広帯域で使用することができるため、距離分解能が他の帯域にくらべて高くクラッタの除去や人体からの信号を分離しやすいという特徴があります。
位相変動を計測するとは ?
位相の時間変動を利用することでバイタル情報を推定するということはわかりましたが、具体的にどういことなのでしょうか?ここからはMIMO方式のミリ波レーダーを例に詳しく見ていきます。
MIMO方式のミリ波レーダーは、物理的に複数の送信・受信アンテナを使用して仮想アレーアンテナを形成し、そこで受信される電波を複素数データ(IQ データ)として取得します。エスタカヤ電子工業製 T14RE_01120112_2D の場合、送信アレーアンテナが3チャネル、受信アレーアンテナが4チャネルのMIMOとなり、合計12チャンネルの仮想アレーアンテナが形成されます。一度の電波の送信単位(チャープセット:Tx1→Tx2→Tx3)毎に、各仮想アンテナの受信波(厳密にいえば受信波と90 deg 位相をずらした送信波をミキシングしたもの)がADCで高速にサンプリングされ、複数の IQ データ(例:256サンプル等)が生成されます。
計測中は複数のチャープセットが連続して送出されるため、取得できる IQ データは以下のような立方体(Radar Cube)を形成します。ここで、Radar Cubeの各辺の IQ データは以下のように対応しています。
- 各チャープ内のサンプリング方向 → 距離
- 仮想アレーアンテナ方向 → 方位
- チャープセット数→ 時間
まず最初に、各チャープ内のサンプリング方向に高速フーリエ変換(Fast Fourier Transform : FFT)を適用し、距離に変換します。例として、仮想アレー第1素子を見てみましょう。ここで検出されたピークの位置はターゲットの距離に関連したデータになりますが、通常クラッタ成分(ターゲット以外からの反射や、送信アンテナから受信アンテナへの漏れ込み等)を含むため複数のピークを持ちます。これらのクラッタ成分に時間変動がないこと、また、ターゲットの体動による位相変化が十分大きいものとすると、時間方向に伸びる距離FFT済み IQ データの平均をDC成分として差し引くことによりクラッタ成分を除去し、ターゲットのピークをより判定しやすくすることができます。
ターゲットの距離が判定できたら、方位方向にFFTを適用(Digital Beamforming)することで、ターゲットの角度を推定し、対象となるターゲットの IQ データを特定します。
ターゲットに対応する IQ データを特定したら、これを時系列に並べて位相変動を観測します。もしターゲットが完全な静止物であれば、理想的には位相の変化が無いはずです。しかしターゲットが変動している場合位相の変化が現れ、ここに体動や呼吸・心拍の情報が含まれているということになります。呼吸や心拍による皮膚の振動は周期性があるため、IQ プロット上で円弧のような軌跡を描きます。
IQ プロットの軌跡を逆正接復調し位相アンラッピングをすると、皮膚の変位をグラフとして描写することができます。この変位には呼吸や心拍の成分の他に体の揺れ等の成分が含まれるため、フィルタをかけて呼吸と心拍に対応する成分を分離し、周波数解析を行うことで呼吸および心拍の平均値を推定できる、ということになります。
以上が基本的な呼吸・心拍推定の原理となります。より精度の高い信号を取得するためには、レーダの送信チャープの位相精度が高いことはもちろん、Radar Cubeのサンプリング周波数(Frame rate)が十分に高いことが重要です。
TITAN T14REシリーズのFrame rateは最大500fpsをサポートしており、位相変動を非常に細かく観測することができるため、バイタルセンシングの用途に最適なレーダとなります。さらに、距離FFTのデータを取得することができるため(図. Rader Cubeと距離FFT 参照)、後段の信号処理を低減させることも可能です。
書籍のご紹介
本技術コラムは 京都大学 大学院工学研究科 電気工学専攻 教授 である 阪本 卓也 先生の著書「ワイヤレス人体センシング バイタルサインの電波計測と信号処理」を参考にさせて頂きました。本書では人体計測や電波センシングの基礎を始め、呼吸・心拍の電波計測応用、機械学習の適用など、マイクロ波やミリ波を使用した人のバイタルサイン計測について非常に詳しく解説されています。また、土台となるアンテナ工学や基礎的な医療の知識等も網羅されており、学生や研究者はもちろん、ミリ波レーダーをバイタルサイン計測に応用することを検討されているエンジニアの方にもおすすめです。
まとめ
今回はミリ波レーダーによる非接触バイタルセンシングについて技術的に少し踏み込んで解説しました。「位相変動でバイタルサインを計測するっていまいちピンとこない… 」という方に参考になれば幸いです。
なお、実際のユースケースでは、静的クラッタの除去を含むターゲット認識するプロセスや、IQ プロットの補正(円弧の軌道は実際には楕円のように歪んでいる場合がある)等、精度を上げるために様々な信号処理が必要となります。さらに心拍推定において、(平均値ではなく)心拍間隔等が必要な場合、心拍波形の特徴点の検出処理が必要になるなど、ここでは紹介しきれない課題がたくさんあります。MaRI社製 VitaWatcher は今回ご紹介した書籍の著者である 阪本 卓也 先生が考案したアルゴリズムが実装されており、最初の評価として活用できる評価キットとなっておりますので、合わせてご検討ください。